Column

院長が日々診療するうちに思う雑感を記す矯正コラムです。

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100年以上前から語られる歯列矯正の抜歯と非抜歯

Edward H. Angle Charles H. Tweed

矯正歯科治療で歯を抜くか抜かないかという話はいまだにトピックになります。特にマウスピース型矯正装置(インビザライン)が普及してから、この話題がまた語られるようになったと感じます。マウスピース型矯正装置(インビザライン)という装置は、その装置の特性上抜歯治療の難易度がとても高いです。マウスピース型矯正装置(インビザライン)では望むと望まざるにかかわらず、どうしても抜歯しない治療がメインになります。抜歯か非抜歯かの話題については、矯正歯科治療を専門に行う歯科医師の中ではある程度答えが出ています。歯を抜かないでほぼすべての患者さんを治療可能と思っている先生は、おそらく誰もいないのではないかと思います。

抜歯か非抜歯かという論争は、今から100年以上前の矯正歯科治療黎明期からずっと語られ続けている長い歴史があります。”The father of American orthodontics(アメリカの矯正歯科治療の父)”と言われるEdward Angle(エドワード・アングル、1855 – 1930)先生は、Jean-Jacques Rousseau(ジャン=ジャック・ルソー)の「人間は本来善良であるが、堕落を正当化する社会制度によって邪悪となっている」との哲学に強い影響を受けておられたようです。アングル先生によれば、「人には本来、完全な歯列を有する能力が備わっている」はずで、「人は皆、32本の天然歯が理想的に咬合する可能性を持っている」「正しい咬合が作られたならば、その結果は安定したものとなるはずである」ということが、信条となっていました。そのため、アングル先生にとっての正しい矯正歯科治療は、歯列を拡大し非抜歯で配列することであり、抜歯は治療後の安定性や審美性にとっては不要とのお考えでした。

アングル先生の意見に反対する先生も当然おられ、その代表者がCalvin Case(カルヴィン・ケース、1847 – 1923)先生で、アングル先生が主張する非抜歯治療は、「長期的に見れば、その結果は審美的にも咬合の安定性の面からも満足し得るものとは言いがたい」と反論しました。1920年代に、アングル先生とケース先生の間で学問的論争が行われ、現在の視点から見ると、ケース先生の主張に分がありますが、当時はアングル先生の主張が勝利をおさめ、非抜歯治療とその理念が広く受け入れられることとなったのです。

ところが1930年代には、歯列の拡大と非抜歯による矯正歯科治療の後戻りが頻繁に見られるようになりました。アングル先生の弟子であるCharles Tweed(チャールズ・ツイード、 1895 – 1970)先生が、後戻りした多くの患者さんについて、抜歯による再治療を行うことを決意します。上下の小臼歯を4本抜歯して再治療した結果、咬合が最初の治療よりもはるかに安定していることを発見します。ツイード先生が小臼歯抜歯を中心とした治療例を多数発表したことにより、歯科矯正学の考え方に劇的な変化が起こり、1940年代後半になって抜歯治療が広く受け入れられるようになりました。

人間の社会的、身体的適応には限界があります。矯正歯科医にとっては、遺伝的に決定されている歯の大きさと顎の骨の大きさとの間に見られる不調和を認識し、食生活の変化による歯の隣り合った面が摩耗し無くなるが、歯の大きさと顎の骨の大きさの不調和の原因になるということを知っていることが必要となったのです。そのため矯正歯科治療を専門に行う歯科医師の中では、ある程度の抜歯は必要であるというのが共通認識となりました。

以上の話はアメリカでの話です。アメリカ人に比べ、日本人の患者さんには、

  • 歯のガタガタの量が多い
  • 顎の大きさに余裕が少ない
  • 鼻が低く、オトガイ部の骨の発達が少ない
  • 民族的に元々口元が出ていることが一般的である
  • 欧米人に比べ歯茎の厚みが少ない

といった身体的特徴があります。すべて非抜歯治療に不向きとなるリスクです。アメリカ人の患者さんであっても、すべて非抜歯で治療することは不可能で、抜歯が必要と認識されているのに、いわんや日本人においてはです。しかし同じ患者さんで、A先生は「抜歯が必要」、B先生は「非抜歯で治療可能」と言われると、どうしても抜歯しなくても治療できるならと患者さんの気持ちが傾きがちになります。そのため先生側も非抜歯で治療可能とつい言いたくなってしまいます。100年前よりいくら医療技術が進歩していると言っても、人が遺伝的に持っている歯と顎の大きさ、不調和は何ら変わらないどころかより悪化している可能性すらあります。「歯を抜かない歯列矯正」などの安易な言葉に惑わされないよう心から願っています。

2024月12月08日

院長 大西 秀威